お知らせ

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*自戒を込めて-> テレビ(大手メディアを含め)はバカ箱ウソ箱
ニュースやワイドショーからは嘘を植えつけられるし、思考痴呆にもなります。

日本の政治や社会を、自分の眼で見て、自分の頭で考えるようにしたいものです。

「公共放送」と名乗っている局や態勢迎合の低俗局、大手新聞社等は時の政府になびくような番組や紙面作りをし国民を騙し洗脳しているのです。 「ゴミ箱」同様の「マスゴミ」情報は信用に値するものであるか、自分の頭で判断したいものです。

*ネットニュースにも、偏狭(偏狂)新聞社やテレビ局のものが掲載されています。 やみくもに信用しない、鵜呑みにしないことが大事ですね。

災害列島ジャパン自衛せよ!

人と防災未来センター

八木下重義ー地震予兆研究センター

*2012年6月、ブログ「続・黒姫高原はんぐろ日記」を開設し、自宅サーバで運用してきたブログ「黒姫高原・はんぐろ日記」の記事等をこちらへ移行しました。 2012年5月以前の記事に載せた写真等はおいおい移行しようと思っていますが、当面ブランクのままの表示となっています。 また従前から開いていたホームページ「黒姫高原・コム」は2015年1月に閉鎖しました。

*所有ドメイン名 kurohimekogen.com, kurohime.com, kurohime.info は順次放棄することにし、当ブログへの転送設定も停止しております。

*新聞の切り抜き等で拡大表示しても文字の判読が難しい時があります。 そのような場合は、切り抜き画像をパソコンにダウンロードしてから表示されると読みやすくなります。

*平和の琉歌



*うないぐみ+坂本龍一「弥勒世果報 (みるくゆがふ) - undercooled」


*the world is coming to an end



*お問い合わせメールは、kurohimekogen●gmail●comへ(●は文字を入れ換え、すべて半角で)

*↓時々、先日付の投稿があります。
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2006年7月31日月曜日

野菜の花

 甲信越の梅雨が昨日明けた模様だと気象庁から発表されたと思ったら、我が家の温度計は午後3時頃33度を示していた。 ちょうど西日が当たる位置にあるため正確な値ではないが、おおよその見当にはなるであろう。
 これまで、かろうじて花を咲かせていた畑の野菜も、気温の上昇でどんどん成長することでしょう。




2006年7月30日日曜日

アマガエル

 我々が子供の頃に池や田圃で見たカエルはガマと呼ぶヒキガエルが殆どであった。 これを捕まえて学校の授業時間に解剖したり、ストローで空気を入れるという残虐なことをしたもんだった。 そんなカエルだが、黒姫で見るカエルはアマガエルが多い。 アマガエルとアオガエルは大変似ているので、違いが分からないのだが、この梅雨の時期には我が家の周りでよく見かける。 カエルを意識するのは、5月の田圃でケロケロ鳴く時期と今の季節である。
 虫を捕まえるためであろう、このアマガエルは我が家の二階のベランダまで登ってきて、結局は帰れなくなり干上がっていることがよくある。





2006年7月29日土曜日

庭先のちょうちょ

 雨が止むと何処からともなくチョウチョが飛んできて、花の間を行ったり来たりしている。 蝶のように見えて実は蛾の類だとか、その逆もあると聞いているので、ただ単に綺麗だから蝶だと判断することができない程度の知識は持ち合わせている。
 でも、分かるのはモンシロチョウ程度と言いたい所だが、先月20日頃、前出の林に白い蝶のように飛ぶものをモンシロチョウと見誤ったので、その知識は限りなくゼロに近い。 あの時の白い物体はキアシドクガという蛾の種類であったらしい。
 それに反し、黒姫からに掲載されている蝶の画像は大変すばらしいし、その生態をよく研究されている。





2006年7月28日金曜日

ブルーベリーの出来が良くない

 我が家の畑のブルーベリーだが、今冬の大雪で1本が倒され根が上がってしまい、土に戻したものの、結局は枯れてしまった。 そして、この所の日照不足や低温で実があまり大きくならないし、いまだ熟している実が少ない。
 それでもヒヨドリか四十雀か分からないが、実を啄ばみに来ることが多くなり、収穫してみようと畑へ行った。 ところが、アシナガバチが数匹飛んでおり、その動きを見ながら恐々と実を取った。 この時期、ミツバチかジバチのような小型の蜂を見かけたことはあるが、今までアシナガバチを見たことはなかった。
 「黒姫から」では、ブルーベリーの実を食べている熊が見られたと記されている。 ここ数年、熊が里に下りてくるという現象と併せ、自然界の生態系がどんどん変化しているということかもしれない。
 加え、実を取ってから半日が経ち、腕にかゆみを覚えたと思ったら、あちこち赤みを帯びた小さな水泡が出てきた。 毛虫に触れた記憶はないのだが、葉についた虫の体液などが雨水に溶け出して、それに触れたのであろうか、分からない。  まだ、殆どの実は青いので、しばらくそっとしておこうと思う。
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2006年7月27日木曜日

八町きゅうり

 飯綱町の農家で、今年は"八町(八丁)きゅうり"を畑に植えたと聞いた。 八町きゅうりがどんな物であるか知らないまま、先日、天望館の野菜売り場へ行ったら売っていたので買い求めてみた。
 普通のキュウリよりは、ずんぐりむっくりした形で、とげとげが少なく、色も薄めの緑である。 ネットで検索したら、もともと須坂の関根さんという方が開発されたもので、しんまいの新ふ~ど記にも7月16日に掲載されていた由。
 普通のキュウリより、青臭さがなく、歯ごたえもやわらかい。 棒状に刻んで味噌で食べるのが一番いいらしい。 八町きゅうり研究会というページを見つけた。
八町きゅうり 八町きゅうり


2006年7月26日水曜日

コスモスはまだ咲かない

コスモス



 毎年、コスモスの種を庭や畑の周りに蒔いているのだが、この所の梅雨空で気温が上がらず、殆ど芽を出していない。 かろうじて一つだけ開花を確認できた。
 そんなことに気づいたら、黒姫高原コスモス園の方はどうだろうとサイトを訪ねた。 既にコスモス園は開園しており、ブログには早生物が花をつけているとあるが、14日以降の記載がないので、やはり梅雨が明けて夏空にならないと、花を愛でることは難しいのであろう。


2006年7月25日火曜日

アジサイ 再び

アジサイ
 花の名は殆ど知らず、その手入れなどはトンと分からないので、庭にあるアジサイは野放図のまま。 雪囲いの時になって枝が伸びすぎていることに気づき、枝を切るのだが、その剪定方法が分からない。 分からないまま切ってしまっていると、翌年はそれに輪をかけて枝が伸びてきて、最近はどんどん大輪のようになってきた。 それにしても梅雨明けはいつになるのであろうか。 


2006年7月24日月曜日

中仙道 追分宿で馬子唄道中

 信濃毎日新聞に次の記事が掲載された。
軽井沢町追分で馬子唄道中
 「第21回しなの追分馬子唄道中」が23日、軽井沢町追分の旧中山道で行われた。地元の追分節保存会が馬子唄を歌う中、飛脚やあめ売り、花嫁、水戸黄門などに扮した約50人の時代行列が練り歩いた。

 二日前の21日に通ってきたばかりの追分宿である。 街道のわきには祭らしい飾りつけがされ、芝居の舞台であろうか昔風の小屋がけがされていたので、イベントがあるなとは思っていたが、馬子唄道中ということであった。
 追分といえば、40年前の学生時代に合宿で数年訪ね、堀辰雄や油屋旅館など旧街道に親しみ、大変懐かしいものであるが、今や光景はだいぶ変わってしまっている。 あの時の学生達は、口角泡をとばした末に、追分宿の酒屋さんを起こして酒を求め、多大な迷惑をかけたものであった。

2006年7月23日日曜日

アジサイの花が咲く

アジサイ 庭のアジサイは中旬から満開となり、今はやや盛りを越えそうな状況になりつつある。 アジサイは東京周辺であれば6月上旬に咲いており、今までも鎌倉・極楽寺近くにある成就院とか、京都と大津の境であろう逢坂の関や月心寺を越えたあたりで立派なアジサイを見たことがある。

アジサイ アジサイの品種は数限りがなく、今でも山の中から新しい種類を発見できると聞いたことがあるが、信濃町では山間ということで、比較的ガクアジサイを多く見るように思う。 先日、ヨーロッパへ出かけた時にアジサイの花を見つけ、こちらにも同じような花があるのだと思ったら、どうも日本のアジサイが持ち込まれたものらしい。 見た時が4月下旬であったので、東京周辺より1ヶ月、信濃町周辺より2ヶ月も早く咲いていることになる。

 晴れ間が出たと思えば、再びしとしと雨が落ちてくる日が続いているが、アジサイの葉の上や花の間から、アマガエルが顔を出す光景はとても愛らしくて、日本の梅雨を顕著にあらわす景色であろうと思う。

2006年7月22日土曜日

久しぶりに戸隠へ行く

 来客があり久しぶりに戸隠へ蕎麦を食べに向かった。 戸隠で食べる店はいつも決まっており、評判だけの店へは行かない。 今回も十数年来の店へ行った。 土日の昼は駐車場が一杯になり、止める場所に難儀することが多かったが、今日は空いていた。
 実は、以前から蕎麦の味や香が落ちているのではと気になっていたのだが、客人がいるということもあって店構で決めたわけだ。 だが、やはり蕎麦の味は落ちている。 出汁も美味しくないし天ぷらの油も悪い。 そば団子も甘いだけのものであった。 客が多い店は、忙しいが故に質が落ちるもの。 たぶん、この店の暖簾をくぐるのは今回が最後であろう。
戸隠 鏡池
 鏡池へ行ってみた。 今の時期は特段の景色が見えるわけでもないが、雲が多いこの季節では、戸隠連邦が見られるのはここしかない。 いつものように絵を描く人々などが来ていた。
 その後に、奥社前にある戸隠民俗館を訪ねた。 初めて入ったがカラクリ屋敷は意外と面白かった。 入場者が多いとカラクリを他人に頼ってしまうので面白さが半減するが、さりとて一人や二人などではカラクリが分からず、気持ち悪いというか一種不安にもなるのではと思われた。

 信濃町に戻る途中にアファンの森を通ったが、夏休みが始まったためであろうか、森を訪ねた一行の姿が見られた。
 午後からかなり濃い霧が立ち込め、これでは今夜の野尻湖花火は見ることが出来ないのではと思ったが、夕方にはあがって、7時45分頃から花火を打ち上げる音が聞こえて来た。 見に行こうと思いつつも夕食が始まったので諦めたら、8時20分頃にはその音も止んでしまった。 人に聞くと、スポンサーの数か、花火の打上数かは分からないが、55だとのこと。 湖畔の釣船や宿を主体にしたものであれば、それなりの規模であろうとは容易に想定は出来る。

2006年7月20日木曜日

コンピュータ雑誌「I/O(アイオー)」の創刊号

 昨日、月刊アスキーの創刊時期の表紙を載せたので、片手落ちにならないよう、コンピュータ雑誌の先陣を切った「I/O(アイオー)」も載せようと思う。
 I/O(アイオー)は、アスキー創刊の前年(1976年)11月に創刊されたもので、この年からメーカーが中心となってマイクロコンピュータショウが開催されるようになった。 そういう意味でも、この年は、マイコン(パソコン)元年と云える年であったろう。
 たぶん、この年にNECがTK-80というワンボードのコンピュータをキットで発売し、自分も時流に押され、万世橋脇の部品屋でやっと見つけて買ったことを覚えている。 値段は確か、79,800円程していたと思う。 プリント板にICや抵抗、コンデンサーを挿して半田づけをし、電源はラジオから外したトランスに電解コンデンサーやら、三端子レギュレーターを使って、5Vや12Vを作り出した。 出来上がったボードに通電して出来ることは、0~Fまでの十六進数を入力するだけのもので、LEDの数字が動くだけで喜ぶ、随分と高い玩具であった。
 さて、このI/Oの創刊号裏表紙の編集人には西和彦氏の名があり、翌年6月号まで記載されていたが、この6月号の編集後記には、I/Oをやめると記している。 その翌月号である78年7月のアスキー誌の編集人として名を連ねていたのであった。 しかも、編集人最後のI/O6月号表紙には、西氏と思しき人物の顔まで残している。
I/O創刊号表紙 I/O創刊号目次


I/O創刊号裏表紙


I/O76年12月号 アスキー77年1月号


I/O77年3月号 I/O77年4月号


I/O77年5月号 I/O77年6月号


アスキー誌の表紙(続き)

 休刊(廃刊?)になるコンピュータ雑誌「アスキー」の最終号である8月号を早速買ってきた。 一頃よりだいぶ薄くなっていたが、それでも創刊時のものより厚い。 さて、その中身だが、ぱらぱらと見ただけで面白くない内容というか、読みたいと思える記事がない。 休刊にせざるを得ない状況を垣間見た感じがする。 添付のDVDに、これまで各号の表紙の写真が収録されていたが、イメージに落とした物だけをここに掲載しよう。
アスキー77年10月号 アスキー77年11月号


アスキー77年12月号 アスキー78年1月号


アスキー78年2月号 アスキー78年3月号


アスキー78年4月号 アスキー78年5月号


アスキー78年6月号


2006年7月19日水曜日

月刊アスキーが休刊

 マイコンからパソコン時代へとIT文化の中心にあったコンピュータ雑誌「アスキー」が8月号で休刊するとアサヒコムで知って、早速月刊アスキーのサイトを訪ねて確認した。
 1976年、早稲田大学に学ぶ学生達が「I/O」というコンピュータ雑誌を発刊していたが、この時の発起人であり編集長であった西和彦氏は、発行方針が合わなかったのであろうか、翌年の1977年6月を最後にI/O(工学社)をやめ、塚本・郡司両名とアスキー社を設立し、1977年7月号を創刊号として「アスキー」を発刊した。 そのアスキー誌が29年続いてきた月刊誌としての発行を今般やめ、別の形に変わるとのことである。
 西氏が飛び出したI/Oも、マイコンブームに乗って一般募集したゲームソフトやユーティリティソフトなどを掲載して、それなりに生き抜いて来たが、既に月刊誌として役目は終えてしまっている。
 西氏の活躍についてば万民周知のことであろうが、マイクロソフト社の副社長まで登りつめながらも、新しい時代に適応できなかったのは残念であったろう。 逆に、古川、塚本、郡司氏らが、西氏と袂を分かち、形を変えてコンピュータ時代に生きているということは、やはり個人としての資質というか、先見の明があったとも云える。
 創刊以来、毎月18日(当初は20日?)になると本屋へ行き、I/Oとアスキーを買うのが楽しみであった。 そして、その後、Oh!PCやマイコンなどの雑誌が続けて発刊されたが、前者のように、必ず買って読むという熱の入った雑誌にはなりえなかった。 やはり30年前を思い起こし、自分のパソコン歴と重ねて見ると懐かしさを感じる。 手元にあるTK-80+BSを取り出して、マシン語を入れてみたくもなったし、AppleIIでルナーランダーでもやってみようかなという気になる。 最終号には、この30年のパソコン時代をサーベイした記事が載っているとのこと、ここ十数年と買っていなかったが最後の号ということで、買ってみようと思う。
 さて、懐かしさが手伝って、書棚にある創刊頃のアスキーをイメージに落としてみた。
アスキー創刊号 アスキー創刊号表紙裏の広告


アスキー創刊号目次 アスキー創刊号裏表紙


アスキー2号表紙 アスキー2号目次

アスキー3号表示 アスキー3号目次

2006年7月15日土曜日

野尻湖トライアスロンの結果を見て

 9日に実施された野尻湖カップトライアスロンのリザルトが、信濃町観光協会のページに既に掲載されている。 320名程の参加者の競技結果が掲載されているわけだが、暇にまかせて参加者の年齢状況を調べてみた。
 大雑把に見ているので不確かな数字ではあるが、完走者は男子280名女子30名で、その合計310名の中から年齢構成を見てみた。
 男性も女性も参加者の年齢層が厚いのは、30歳代から40歳代前半で、男子40~45歳に限ってみると74名もおり、完走者総数の4割近くにもなっている。 時間的な余裕や体力を維持したいという気持ちの現れが、この40歳前後の参加者に出ているのであろう。
 若い方は、男子が20歳、女子が19歳。 最高齢は男子73歳、女子72歳。
 50歳代は、男子47名女子4名、60歳以上の方は、男子13名女子1名。
 毎年、壮年の方々の参加が多いのには驚かされるし、我々もおちおちしていられないなと元気づけられるものである。

2006年7月13日木曜日

天体観測

 先日、北海道新聞のサイト版で、「息子しのぶ天文台と別れの日 札幌の夫婦 子供向け、赤平に寄贈」という記事を見た。 星になった息子さんを偲び、長年使ってきた望遠鏡を広く子供たちに使ってもらいたいと寄贈される話であった。
 忘れかけていたが、今月は七夕や天の川などが子供たちの世界では話題になる月である。
 以前、我が家の客人が黒姫に来られる時に、黒姫であれば星座がよく見えるであろうと、天体望遠鏡を頂いた。 しかし、街灯など町並みの明るさに阻害され、あまり星を見ることができずに、月のクレーターであきらめ、結局望遠鏡はお蔵入りになってしまった。
 かつて、千畳敷カールのロープウエイに一番乗りするために駒ヶ根の駐車場で仮眠したことがあったが、あの時の星空は手が届きそうな位に無数の輝きが見られ、大変感動したことがあった。 黒姫でも山の中に入れば、同じような光景を見つけることができるのかもしれない。 八ヶ岳などでは天体観測が出来ることを特色としているペンションがあると聞いたことがあるが、黒姫ではどうなのだろう?

以下、北海道新聞2006年7月5日紙面から
息子しのぶ天文台と別れの日 札幌の夫婦 子供向け、赤平に寄贈  2006/07/05 07:26
 いつも天体望遠鏡で夜空を追った息子を交通事故で失い二十二年。札幌市中央区の建設会社「共和総業」(札幌)を営む長尾正次さん(64)が、亡き長男をしのんで自宅に設けた私設天文台が、子供たちの夢をはぐくむ場として、赤平の地で再出発することになった。望遠鏡は三日に、ドームは近く移設し、子供たち向けに企画している科学キャンプなどに活用していく予定だ。
 移設は、小型宇宙ロケット開発にも取り組む「植松電機」(赤平)が行っており、同社の敷地内に設置する予定。
 私設天文台は、直径三メートルほどのドームに口径四十センチの反射望遠鏡。長尾さんの住宅を兼ねた自社ビル六階の屋上からさらに階段を二階分上がった場所にある。
 天文台まで造って長尾さん夫妻が星を眺めるようになったきっかけは、長男正美さんの交通事故死だった。当時十八歳。一九八四年三月、胆振管内豊浦町の国道で買ったばかりの乗用車を運転中、ダンプカーと正面衝突。即死だった。
 自然が好きで何よりも星空が大好き。暇さえあれば「星のきれいなところ」に望遠鏡を持って出向いていた。息子の姿を追い求め、遺品の望遠鏡をのぞくうちに、いつしか夫妻も星に魅入られていた。ビル増築に併せて最上部の塔屋上に、家族専用の天文台を造った。
 六十歳を超え、いずれは「上れなくなる日が来る」と感じた長尾さん夫妻は、天文台の撤去を決め、活用してくれる人を探した。望遠鏡とドーム合わせて五百万円相当で、移設には数十万円から数百万円が必要だった。
 活用先は、なかなか見つからなかったが、相談した厚別区のアマチュア天文家、渡辺和郎さんの協力で、植松電機に寄贈し、移転費用を持ってくれることになった。長尾さん夫妻は「多くの子供たちのために使ってもらえるのが何よりもうれしい」と話している。

2006年7月10日月曜日

ライブ・カメラの障害が広がる

 我が家のベランダから見られる黒姫山などの姿を配信しているライブカメラだが、数ヶ月前からプリセット位置がずれ始め、その都度直していた。 しかし、今日になって、そのプリセット選択が全く機能しなくなった。 位置を修正しても、すぐに狂ってしまうのである。 従い、プリセット選択が使えないように設定した。 黒姫山の遠望映像しか見られず、以前から写していた固定カメラと同じ状態になってしまったわけだ。
 2004年8月に設置し、冬の寒さや夏の暑さなど、機器の仕様にある温度限界をはるかに越えた厳しい自然条件に置いているので、どこまで耐えられるか運用に不安を感じてはいたが、2年を経ないうちに風前の燈状態になってしまった。 映像範囲が限られてしまうが、室内に設置した方がいいかもしれない。

2006年7月9日日曜日

野尻湖トライアスロン

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 今日は、毎年行われている野尻湖トライアスロンが実施される日である。 黒姫で行われる夏のイベントの幕開け的な行事なのだが、町内を移動すると交通規制があるし、もともと興味もないのでわざわざ見に出るようなことはない。
 それでも少しは気になって、水泳が始める8時過ぎから芙蓉荘の野尻湖カメラを見ていたが、画像の中に選手の姿はほとんど入らなかった。 水泳がスタートした8時25分頃と、1時間後の到着した頃にわずかな賑わいが見られていたが、9時半過ぎには元の静かな湖面に戻っていた。

2006年7月8日土曜日

海はあっち 山はこっち

 7日の信濃毎日新聞に次の記事が掲載されていた。
名物看板の給油所が移転で閉店 豊野
 「海はあっち 山はこっち」の看板で知られる長野市豊野町の浅野交差点脇にあるガソリンスタンド「高見沢豊野給油所」が、移転のため4日の営業を最後に閉店した。 「名物看板」も役目を終えたが、同給油所は「欲しいとの引き合いもあり、どうするか悩んでいる」と話している。

 黒姫へ車で通う一時期は、浅野の交差点を通ったので、この看板にはほどほどの印象を持っており、面白いなと思っていた。 しかし、現在は殆どこの交差点を通過することがなくなったので、忘れかけており、この記事で思い出した次第である。
 そういえば、表現は全く異なるし不確かな記憶だが、上信越道を更埴から走ってくると、松代SAの手前で、「日本海まで最後の給油所」というような意味の表示がある。
 初めて黒姫に通い出した時は、長野自動車道が豊科で終点であったため19号線を走って、長野からは仁ノ倉線か、たまに昔の北国街道(現在と違って狭くて片側側溝の道)を使っていた。
 上信越道が須坂まで来た時に、千曲川の土手沿いに赤沼で18号線に出て、この浅野の交差点を通ったわけで、この時からこの看板は見ていた。
 その後、中野で降りた時は、この交差点を通過するが、真正面に看板を見ないので少しずつ印象が薄れていた。 更に、信濃町まで高速で来れるとなると全く通らないし、北信五岳道路を使って中野で出る場合でも通らないことになった。
 ガソリンスタンドも過当競争の時代にあるので経営が難しいのか、より良い立地条件を模索しているのであろう。 しかし、7年前のレギュラーガソリンはリッター90円の半ばであったが、現在は130円台の後半になっている。 原油価格の高騰だと云うが、世界的にみて価格調整が出来ていないか、石油資本ががっぽり稼いでいるのか、実態は分からない。 モータリゼーションを進めていながら、ガソリン価格高騰で市民の生活を苦しめているのは本末転倒というか、国の施策の失敗ではないかと思うのだが、そういう声を上げる人はいないようだ。

2006年7月7日金曜日

一茶のふるさと(写真 続き)

 写真信濃風土記「一茶のふるさと」に掲載されている写真を続けて掲載する。(画像をクリックすると大判の画像が表示され、大判上でクリックすると元のウインドウに戻ります)
一茶のふるさと
 火の見櫓(戸隠街道分れ道付近)に登って、上から柏原本陣付近を見下ろして撮影したものと思われる。 奥に諏訪神社の杜が見えている。 国道を往来する車は少なく、現在と違って側溝には蓋がない。 昨日掲載した本陣の写真には松並木を残していたが、この写真ではそれが見られない。

一茶のふるさと
 影の様子から見ると、雪解け時期の昼過ぎであろうか、温かい日差しを浴びながら長靴を履いた子供達が一茶旧宅の前で遊んでいる風景だとうかがえる。 旧宅の土壁にずいぶんと悪戯書きがされているのもよく分かる。 戦後しばらくは人々の目は、このような史跡保存に向いていなかったのであろう。

一茶のふるさと
 雪が舞う真冬の一茶旧宅の入口付近であろうと思われる。

一茶のふるさと
 黒姫駅前の一茶通り商店街(当時は、銀座商店街であったろうか、昭和43年に改称と聞いた)の雪下ろし風景であろう。 山屋さん辺りから駅に向かって撮影しているように思われる。 それにしても黒姫山の斜面が随分と迫ってくる写真になっている。