お知らせ

お知らせ

*自戒を込めて-> テレビ(大手メディアを含め)はバカ箱ウソ箱
ニュースやワイドショーからは嘘を植えつけられるし、思考痴呆にもなります。

日本の政治や社会を、自分の眼で見て、自分の頭で考えるようにしたいものです。

「公共放送」と名乗っている局や態勢迎合の低俗局、大手新聞社等は時の政府になびくような番組や紙面作りをし国民を騙し洗脳しているのです。 「ゴミ箱」同様の「マスゴミ」情報は信用に値するものであるか、自分の頭で判断したいものです。

*ネットニュースにも、偏狭(偏狂)新聞社やテレビ局のものが掲載されています。 やみくもに信用しない、鵜呑みにしないことが大事ですね。

災害列島ジャパン自衛せよ!

人と防災未来センター

八木下重義ー地震予兆研究センター

*2012年6月、ブログ「続・黒姫高原はんぐろ日記」を開設し、自宅サーバで運用してきたブログ「黒姫高原・はんぐろ日記」の記事等をこちらへ移行しました。 2012年5月以前の記事に載せた写真等はおいおい移行しようと思っていますが、当面ブランクのままの表示となっています。 また従前から開いていたホームページ「黒姫高原・コム」は2015年1月に閉鎖しました。

*所有ドメイン名 kurohimekogen.com, kurohime.com, kurohime.info は順次放棄することにし、当ブログへの転送設定も停止しております。

*新聞の切り抜き等で拡大表示しても文字の判読が難しい時があります。 そのような場合は、切り抜き画像をパソコンにダウンロードしてから表示されると読みやすくなります。

*the world is coming to an end*



*お問い合わせメールは、kurohimekogen●gmail●comへ(●は文字を入れ換え、すべて半角で)

*↓時々、先日付の投稿があります。
 下へスクロールして直近の投稿を確認して下さい。

2007年2月28日水曜日

一茶初恋の女の墓を再び訪ねる

今日の暦から : 頭寒足熱で能率的な仕事



神奈川県浦賀の専福寺

 「ひねくれ一茶」の初恋の女(ひと)の件(くだり)を読んで、一茶が訪ねたという、三浦半島の浦賀にある専福寺というお寺を再び参ってみる気になった。
 このお寺さんは、昨年、偶然見つけたものだが、碑文をあらためて確認しようと思ったのである。


 「ひねくれ」の中では、一茶はその女を"おりよちゃん"と呼んでいるが、香誉夏月明寿信女という戒名からであろうか、境内にある碑文には寿女(ひさじょ)と書かれてある。 お墓は墓地の奥であろうか、崖に近い所にあったということだが、本堂か建物を作る時、もしくは無縁仏として合葬されてしまったのであろう、現在はその場所も分からないと表示があった。 寿女碑文
 「ひねくれ」の中で、おりよちゃんが登場する場面は、2ヶ所ある。 一つは祥月命日に、心を寄せていたであろう未亡人の花嬌が住む富津(前回金谷と書いたが間違いのようだ)から浦賀へ渡る場面と、故郷柏原での菊女との婚礼の時である。 よく読むと、富津から百首という場所へ移動して浦賀へ渡ったと記述があり調べると、富津市内に百首城という城があった場所があると、君津地方歴史情報館というサイトを見つけた。 これを見ると、花嬌の弟は金谷の華蔵院という住職であり、姉ともども一茶の俳友であったと、花嬌の墓は大乗寺に現在もあると説明があった。


1.ひねくれ一茶「白露の墓」から その1


2.ひねくれ一茶「白露の墓」から その2


3.ひねくれ一茶「白露の墓」から その3


4.ひねくれ一茶「白露の墓」から その4


5.ひねくれ一茶「五十聟」から





神奈川県横須賀市東浦賀2-27



2007年2月27日火曜日

映画「サベイランス」を観る

今日の暦から : 冬の風呂場はよく温めて

 JAながののカレンダーから日々の一言を書いていて、今年の暖冬と小雪に、時期が少しずれているようにも感じてしまう。

 さて、パソコンの主流OSであるウインドウズを提供するマイクロソフトがビスタを出して約1ヶ月が経った。 パソコン売場を見ると全てビスタ搭載機だし、廉価機だとデスクトップで6万円、ノートだと8万円位から買うことができる。
 マイクロソフトは、セキュリティーを高めたとアナウンスしているが、一般的には証左されていないし、追加機能がどれだけ一般人に有益なのか分からず、そのうち自前のPCが遅くなったり飽きてきたら、購入を考えればいいだろう。

 それよりもスパム・メール対策が欲しい。 日に200~300のスパムメールが届き、ブログのコメントやトラックバックもくだらないものが50程ある。 毎日、PCの電源を入れて、これらを削除する所から作業が始まるのである。 最近は、メールソフトのスパム対策をスルーして何がなんでも見させようとするメールもある。

 ところで、先日、マイクロソフトのビル・ゲイツとおぼしき人物が出てくる映画を見た。 2001年製作のサベイランス-監視-(ANTITRUST)というタイトルで、シナプスという全ての情報を統括してしまうシステムを導入するソフトウエア会社を舞台にした物語である。
 実際のマイクロソフトが他社の技術を買い取り、OSに組み込み会社を大きくしてきたように、この会社もガレージ企業から大きくなったという設定である。 そして、優秀な人材を取り込んで行く中で、社員の生活を監視し、力のない者は切り落としていく。 そんな中で、社内の異常をある社員が見つけていくのである。
 結果、ガレージからシナプスというシステムを利用して、悪巧みの存在を世界にアナウンスしてしまういう、ガレージから大きくなった企業を、ガレージから潰してしまうという痛快な内容であった。

 実際のビル・ゲイツは、福祉財団を作り慈善事業など社会への還元を行っているが、あながちこのストーリーを全面的に否定する気にはなれない。 ビッグワンとか、ビッグスリーとか、企業の大きさを示す言い方はあるが、寡占化は社会にとって決してプラスにはならない。 適正な競争原理がない社会は、独善的て富の偏在など、問題ある社会になる恐れがあると思うから。
 映画の最後にあった台詞で、「知識は世界の財産」というのは重要な意味を含んでいるようにも思う。

 アカデミーにノミネートされたとかしないとか騒がしい、ここ数日だが、少し古い映画でもこのように考えさせられ、そして楽しめるものがある。

サベイランスから サベイランスから
サベイランスから サベイランスから
サベイランスから サベイランスから


2007年2月26日月曜日

真空管アンプの宿?

今日の暦から : 風邪の予防にウガイ励行

Bose Wave Music System

 昨日に続いて今朝も素晴らしい天気のもと、黒姫山が大変綺麗に見えていた。

 さて、今日は音楽の話題。 音楽といっても装置のこと。 若い頃は、オールインワンの安いオーディオを使い、その後グレードを上げてラックスマンなどを購入したこともあるが、まだまだ凝り性の範囲には入っていなかった。 そんな時、信濃町のあるお宅に伺った時に応接間にあるオーディオ機器を見て、自分も少し考えようかなと仕事が一段落した記念に、デノンタンノイ(タンベリー)の組み合わせで装置を一新した。
 JBLも一考したが、やはり軟らかい音がいいとタンノイを選んだのだが正解であった。 部屋を音響専用にリフォームできればいいのだが、そこまではお金をかけられない。 あまりボリュームを上げられずに我慢しながら聞いている。

 そして、普段は、ボーズのWave Music Systemを使っている。 クリアーな音が聞こえ、これも気に入り親しい友人の新築祝いに使わせてもらったほどだ。 アナログ盤に懲りだしたら際限がないので、もっぱら音源はCDに限っているが、これとて置き場所に悩むようになってきた。 一応ABC順に棚に入れているのだが、いざ探すとなると見つからない。 一時はエクセルに入力して管理していたが、ついつい入力を後回しにしていたら、データがかなり古いものになってしまった。

 オーディオ装置は、アキュフェーズマランツ等などいいものはあるが、値段が高いし凝り出したら際限がないので、これで十分だと思っている。 最近、少し関心があるのは真空管アンプである。 昔、半田ごてを使って、ラジオや無線機、アンプを作ったりしたことがあったが、そんな時代にたまには戻りたいのである。 真空管アンプはキットでも販売されているし、プリント板なので配線もそう複雑でない。 大きなST管の赤いフィラメントが見えるのが、一層温かさを増し部屋が和むように思う。(但し、触ると火傷をするだろうが)

 そんなことを考えていたら、先日の信濃毎日新聞に、岡谷市で真空管アンプでレコードコンサートを開くという記事が載っていた。
 黒姫駅前の萬屋酒店さんや明専寺さん、ペンションなどでもコンサートが開かれることがあるが、昭和の時代を彷彿とさせるような、真空管アンプ+レコードという組み合わせのコンサートや、音楽が楽しめるペンションなどがあってもいいように思う。 街中のジャズ喫茶などの火はだんだん消えつつある。 廃業される方の財産を受け継ぐという手があるかもしれない。
 真空管アンプの宿があったら、団塊世代の人々がリピータとなって信濃町にやって来るかもしれないと、一人合点しているのであった。
手作りアンプ記事から


2007年2月25日日曜日

カメラ片手に東京駅周辺を徘徊

今日の暦から : 疲れた脚は高くして寝る

今朝(2月25日)8時の黒姫

 今朝は、久しぶりに見られる快晴の雪国景色でしたが、我が家の温度計は今朝マイナス12度を示していました。

 こんな綺麗な世界が見られるのも今日が最後でしょうか、今冬ほど温暖化を意識された方は多いかもしれません。

 この小雪に、今から夏場の大雨や冷夏を心配される方がおります。 大きな天変地異には、なかなか人間は付いていけないものです。 日照不足による稲作や野菜などの被害が無いことを願いたいものです。

 昨日は、冷たくて強い風が吹く中、カメラ片手に東京駅周辺を徘徊しました。
 まだまだ被写体を見つける眼が出来ていない者にとっては、大都会の中でレンズを向ける対象物に困惑する次第です。 デジカメで安直に撮る態勢が出来てしまった身には、作品を撮るというのは、越えられそうにない大きな山となっています。
 行き交う人々の中にマスクをしている人が見受けられました。 早々と花粉症を発症しているようですが、これも一種の現代病なのでしょう。 排気ガスなどの環境汚染や添加物などの摂取による抵抗力の低下などが要因ではないかと思われます。 日本の昔人の知恵である米や味噌醤油などの食文化や農村風景などの大切さが、あらためて認識させられました。

 下の写真は、丸ビルの階上から見た東京駅の夜景。 このレンガの建物は改修工事とあわせ、明治の開業当時の3階建てになり、東口には高層のオフィスビルが建てられるとのことです。 一極集中は更に高まりそうです。
東京駅の夜景


2007年2月24日土曜日

「戸隠の水」を販売

今日の暦から : スギ花粉症早め対策が大切

 昨日までは雪が残っている場所を探さなければいけないほどであったのに、今朝は平年と同じ雪国に戻りましたね。 そうは云っても今日の天気予報は"後晴れ"、久しぶりの雪国は夕方までもつでしょうか?
 さて、先日、しんまいに、長野市が「戸隠の水」を製造販売するという記事が掲載されていた。
 水商売とは良く言ったもので、空気と水はただだと思っていた日本人ですら、昨今は百数十円を出してペットボトルの水を買うのが当たり前になって来た。 従い、名水と云われるミネラルウォーターを売る商売は良い稼ぎになるのかもしれない。 そうは云っても実際は、採出(水)権や諸官庁の認可取得、検査や殺菌設備などが必要であるし、競合他社も多いので、利益を出すのは大変なことであろう。 既に、国内には500以上の商品があるらしい。 長野市は営業利益より、イメージアップの効果を期待しているとのこと。 ミネラルウォーターを検索すると、ウイキペディアの他、いくつかの説明サイトが見つかった。

日本ミネラルウォーター協会
ミネラルウォーター大全
ミネラルウォーターこれだけ知っ得

 戸隠の隣町になる、我が信濃町の水道水もけっこう美味しいと自分は思っている。 何かにつけて書くことが多いが、街中の水と比べてパンの焼き具合いとか膨らみが違うと家内は言う。
 以前は、この水を売り物にしたらと思うほどであったが、いよいよ長野市が先行するらしい。 しかし、黒姫や戸隠のかなり奥まで人間や動物が踏み入れているし、近くには畑や牧場などもあるので、真に純粋な自然水を採取するのはなかなか難しいのではと思う。

 さて、日本のミネラルウォーターは加熱殺菌が義務付けられている。 しかし、これでは折角の自然水が(分子レベルで)死んでしまい、体内に摂取しても細胞に入り込んでいかないと言う人もいる。
 信濃町の水が美味しいと思っていたが、昨年から、ウォーターサーバーとして提供され、加熱していない自然水を飲むようになったら、これが実に美味しいのだ。 舌から喉にかけて、水の滑らかさや甘味すら感じるのである。 炊飯(玄米)では、ご飯の炊き具合が数段良くなって美味しくなる。 最近はこちらの水に執心している。
 制度のことはよく分からないが、200cc程度のボトルは加熱殺菌しなければいけないが、我々が多用しているような11リットルという大きな容器で提供されるものは、非加熱製法でも良いということらしい。

 なお、フランスやスペインあたりへ行くと、黙っていても食事の時にワインはついてくるが、水を頼むと別料金を払うことが殆どだ。 また、場合によってガス入りの水が出てくることもあるので、ガス入りか無しかを特に言う場合もある。 日本ではガス入りは少ないが、すっきりするし甘味もあっていいのだが、時間が経つとやたら不味さが目立ってくるので、早々に飲み干すことが肝要だ。 ガス入りはあまり日本人の体質には合っていないかもしれない。

 ついでに、昨今の人々は、コーヒー飲料やコーラなど炭酸飲料をよく飲むが、甘みの過剰摂取になるし、炭酸は骨を溶かすなどの悪影響がある。 果汁飲料なども添加物だらけで、添加物の一つ一つは体に害はないとされているが、複合汚染の影響は誰も調べていない。 体に悪い恐れのあるものを飲用するより、自然水に徹することは非常に大事なことだと思う。

長野市が「戸隠の水」を製造、発売 水道水の水源を利用 2月22日(木)
 長野市水道局は21日、同市が水道水に利用している「戸隠水源」の水を浄水し、500ミリペットボトルに詰めた「戸隠の水」の製造を始めた-と発表した。飲料水を買う市民の増加や、節水型家電製品の普及などで、旧市街地では水道水の使用量が年々減少。このため、水道水のイメージアップを図り、利用量回復につなげたいと企画。会合で配ったり、市の施設で販売したりする。
 「戸隠の水」は、戸隠水源の水を利用している往生地浄水場で、水道水と同様にろ過、塩素殺菌した水を加熱処理して詰めた。1万5000本を製造し、浄水場見学者などに配布するほか、1本100円で販売する。売れ残った分は、災害用の備蓄として利用する。
 全国で自治体が水道水をペットボトルに詰めて販売する動きが目立つ中、長野市は1本当たり約90円のコストがかかるとして、採算を理由に販売にはそれほど力を入れない考え。浄水処理した水道水をペットボトルに詰めた「東京水」を製造している東京都水道局も「飲めばおいしいと言ってくれる。採算は取れないが、徐々にイメージアップにつながっている」とする。
 長野市水道局は「戸隠の水はミネラル分が少ない軟水で、飲みやすいのが特徴。おいしさを実感してもらうことで、自然豊かな長野市のイメージアップにもつなげたい」と話している。
信濃毎日新聞より

2007年2月23日金曜日

初物のフキノトウを味わう

今日の暦から : 生活習慣病が好む肥満体

高遠城址の福寿草

フキノトウ

 先日のしんまいには、高遠城址公園の福寿草が満開だと掲載されていたが、信濃町でも日当りの良い場所で黄色い花を咲かせていると、何人かの方がブログ等で発信されている。

 そんな1ヶ月も早い雪解けに、川の土手や田んぼの畦で見つけたと、今日はフキノトウを沢山いただいてしまった。
 早速、洗って刻むと、フキの何とも言えない香りが部屋に漂った。 フキ味噌天ぷらにしていただいたが、我が家のフキ味噌は、蕗は大きく刻み、砂糖や味噌は少なめにして蕗の香りが消えないようにする。 味噌味や甘さが際立ってしまったら、折角のフキ味噌が台無しだからである。 砂糖の代わりに赤酒などを使うと品の良い甘味になると云う。
 2~3日前に、京都の味百選につらなる店のだというフキ味噌を食したばかりであったが、味噌に対する感覚が違うのか、緩々の味噌水のようで、もう一度食べたい気にはならなかった。 大枚はたくより、我が家なりの工夫をしたものの方が、何ぼか味わい深いと思う。
初物のフキノトウを味わう


2007年2月22日木曜日

はつ雪やちりふの市の銭叺

今日の暦から : 息抜き上手でストレス解消

  「一茶」、「ひねくれ一茶」と読んで来て、先日「藤沢周平の世界」という週刊誌に一茶の西国行脚などの経路図が描かれてあったと書いた。 そんな地図を見たら、一茶が巡った路を訪ね歩くのも一興ではないかと思えて来た。 当時の路を詳細したような資料はないであろうが、一茶句碑があるポイントをつないで行けば、結果一茶の足跡を辿ることになろう。 と思うだけで楽しくなりそうだ。 具体化しようかな?

 かつて、そのポイントの一つに出会ったことがある。 旧東海道歩きの際、2002年11月に偶然通りかかった時に見た愛知県知立(ちりゅう)市にある一茶句碑の写真をここに残そう。 知立の当時の宿場名は、池鯉鮒(ちりゅう)宿で、徳川ゆかりの岡崎宿鳴海宿の間にある。 更に街道を上ると、桶狭間、絞りで有名な有松笠寺観音、熱田神宮がある宮宿などと旧跡の多い地域である。 池鯉鮒宿は、木綿の市がよくたったと、タイトルの句は一茶がその様を詠った句であるとのこと。 銭叺とは、商人が使うつり銭を入れる篭か袋のようなものを指しているのであろう。 一茶51歳の時に来たと説明にはあるので、最初の西国行脚の時に詠われた句ではないようだ。
 

 
知立市の一茶句碑
芭蕉も「不断たつ池鯉鮒の宿の木綿市」と詠ったと説明あり
再生された松並木(400mほど)


グーグルマップを航空写真に切り替えてズームアップすると、松並木とおぼしき画像が見られる。 一茶句碑はこの一角にあった。

愛知県知立市山町東並木北12


2007年2月21日水曜日

花の世に無官の狐鳴きにけり

今日の暦から : 夜更かしは明日への疲労

ひねくれ一茶(田辺聖子著)

一茶(藤沢周平著)

 田辺聖子さんの「ひねくれ一茶」をやっと読み終えた。 タイトルの「花の世に無官の狐鳴きにけり」は一茶の辞世の句なのであろうか作品の最後に書かれてあった句である。 全548頁は読み応えがある。

 昔、読んだ時の記憶だと、"ひねくれ"というタイトルと遺産をめぐる骨肉の争いから、一茶の一部の側面だけを突出させた作品だとずっと思っていた。 しかし、今回読み直して随分と違う人間像を見た。 藤沢周平の作品もそうなのだが、他人より少し背伸びをしたいとか、明日の食料を心配しなくてすむ生活をしたいといった、誰でももっている小市民的な希いを一茶も求めていたということがよく分かった。

 二つの作品を比べてみると、「ひねくれ」の方は、江戸へ奉公に出される場面や西国行脚などの記述はない(思い出部分はあるが)。 あとの大まかな流れは両作品とも似ているものの、「ひねくれ」は、女性の眼から見たきめ細かな表現があり、著者の創造なのか、北斎や北越雪譜の鈴木牧之、初恋の女性も登場する。(訂正:一時、北斎を西鶴と誤記、西鶴は100年程早い)
 話し言葉は、当時のままではないと思うが、現在信濃町の年配者から聞くことができる方言が多用されていて、それが分かるから余計楽しくなる。 語尾に「ずら」を付けるのは、三河者が柏原に棲みついたということを意識しているのであろう。

 一茶が作った2万句のうちの幾つだか分からないが、頻繁に一茶句が登場する。 作句の背景や意味が分かればもっと楽しめたと思うが、読み手の方にそれだけの能力がないから仕方ない。
 巻末に、信濃毎日新聞社刊「一茶全集」を底本にしたと書かれてあるだけで、あとがきはないが、以前町の古老から、一茶記念館の館長をされていた清水哲さんらがお手伝いをされたようなことを聞いたことがあった。

 藤沢周平、田辺聖子と読んできて、机にはあと一冊、井上ひさしの本がある。 こちらは戯曲ということで、殆ど作り物だろうから、取り立てて一茶像を描く必要はない。

2007年2月20日火曜日

曇りのない心で生きる

今日の暦から : 湿度と喚起に気配り暖房

みんないい人ね

 手元に、「みんないい人ね - 曇りのない心で生きる」と題された迫登茂子さんという方が書かれた書籍がある。 出版元は、風雲舎

 長い教員生活の後、著者が過去生が見えるようになったと、そこから出発した"生きる喜び"を交遊録と共に記している(と思う)本である。 "と思う"と書いたのは、シャーマニズムというのか、一種超能力のようなものの存在はあると漠然と思うものの、何か"怖い"というか、近寄り難い印象があるからである。 気功とか、中国拳法とか、忍者の所作などにも通ずると思うのだが、人間には先天的に超能力が備わっていると思うし、五感以上の感覚はあると信じている。 しかし、長い歴史の中で尾?骨と同様に、そういう器官は使われず殆どは退化したのではないかと思っているものの、何かのかげんで、再び感覚を覚醒される方が居られるわけだ。

 そうは思うのだが、この手の本は真剣に読まなければいけないと思うせいか、なかなか開けないでいる。 さて、今日、記そうと思ったのは、この本の中に、「えんめい茶」でよく知られる黒姫和漢薬狩野さんとの交友が書かれていたからである。 わずか数頁だが、戦後の黒姫の一場面を現しているのではと、ここに載せておくことにしたわけだ。

「みんないい人ね」から その1
「みんないい人ね」から その2
「みんないい人ね」から その3
「みんないい人ね」から その4


 本書のあとがきは、狩野さんの奥様が書かれているが、戦後山桑に住まわれ、学生時代にはお母様が提灯を持って柏原駅まで迎えに来られていたと記され、大変な時代を生きてこられたことが垣間見える。 なお、ご主人の誠さんには茶房で一度お会いし、夕方長野のご自宅に帰られる姿を何度かお見受けしたこともあるが、人伝ではあるものの最近身罷れたと伺った。 戦中戦後の大変な時期を生き抜いて来られた方の一時代が終ったということであろう。
 なお、黒姫和漢薬研究所のサイトから、「黒姫山麓に生きる」をクリックすると、えんめい茶アーカイブスの頁を開くことができ、戦後ご苦労されてきた、えんめい茶の歴史の一端を知ることができる。
「みんないい人ね」から  あとがきの一部

 このエントリーを見て、興味を持たれた方が居られたら、風雲舎のサイトからでも本書は注文できるので、ぜひお読みいただきたい。

2007年2月19日月曜日

緩褌(ゆるふん)良寛

今日の暦から : 喫煙は本人も周囲も毒

 二玄社と聞けば、若い人であればカーグラフィックNAVIという自動車情報の専門誌を出版している会社と気づくであろう。
 ところが、この出版社は、書道や東洋美術でも名の知られた会社で、所謂二足の草鞋を履いた仕事をしている会社なのだ。 時折、この二玄社から出版ダイジェストという新聞が送付されてくる。 二玄社のような専門書を取り扱う出版社が出版梓会という社団法人をつくり、書籍情報を定期的に発信しているらしいのだ。
 以前、家内が書道関連の書籍を購入したことで送ってくるのであろう、二玄社を特集するような記事の新聞が年に数回送られて来ており、今回のテーマは「良寛」であった。

 良寛は、黒姫から1~2時間ほどの運転で行ける、新潟県の出雲崎に生まれ、実家は神社であったが出家し、曹洞宗の僧侶として和歌や俳句、漢詩三昧の一生を過ごしたとのこと。 現在の出雲崎には良寛記念館があり、1997年に我々も訪ねたことがある。

 前置きが随分と長いのだが、出版ダイジェストに原子朗さんという方が「緩褌良寛」というタイトルで寄稿されているを見つけたのである。
 原子朗さんにお会いしたというか、初めてお話しをうかがったのは、2004年8月21日の一茶記念館であった。 この日、一茶記念館の年次講演会として「一茶句のおもしろさとおそろしさ」と題して話されたのであった。 博識であると同時に、矍鑠として凛とした芯の強さを感じたことを覚えている。 講演当日の日記から一部を記そう。
 司会者が、今日の講演者である原子朗さんを紹介。
 修辞学の研究者で、宮沢賢治イーハートーブ館館長であると同時に、30年前から黒姫高原の山桑に別荘を持ち、童話館で講演されるなど信濃町とのかかわりをもって来られている由。
 一茶記念館のこの講演会は年間行事の1つで今年3番目の講演で、今回は、「一茶句のおもしろさとおそろしさ」と題したものである。

 講演の内容は、当時の時代背景から一茶の生き様と一茶句を詳訳したもので、
 ・幕府直轄の天領であったこと、
 ・親鸞に詣でるために三河から北国街道を歩き、柏原に居を構えた人々のこと、
 ・農業文化が栄えたこと、
 ・平均余命30数才の時代に65歳まで生きた一茶を支えたのは蕎麦であったこと、
 ・小林家は小作農ではなかったこと、
 ・一茶の家庭環境のこと、等々
 お話が多岐にわたり、その中で一茶句をいくつも解説されていた。

 その他にも、
 ・松木姓のこと、
 ・鍛冶職人の中村与平さんのこと、
 ・らくや食堂、
 ・しなの書房を秘書箱代わり(気付)に使われたこと、
 ・ノーマンさんのこと(原さんは、戦後間もなくノーマンさんの仕事の手伝いをされた由)、
今日の信濃町の情報とからめて話され、非常に面白く興味を持って聴くことができた。
 最後に、一茶を支えた蕎麦の原産地はイラン・イラクであり、蕎麦がきを焼いたようなパンをあちらでは食すとのこと。

 原さんは、先の大戦で兄弟を亡くされ、その分自分は長生きして憲法9条を守るのだという、イラク派兵などとんでもないと真摯に発言されるなど、齢80とは思えない若さにも敬服した。

 講演が終って、原さんが退場されてから、家内は追いかけ、会津弥一と信濃町との関わりを質問した。 原さんが想定していた以上の質問であったのか、信濃町に住んでいるのか、大学はどこだとか、故郷はどこだか、逆に矢継ぎ早に質問責めに会ってしまったとのこと。
 講演中、黒板ではなく白紙に筆で書かれていたが、本人は会津弥一風だというが.....

 本題の、「緩褌良寛」の発想だが、なかなか楽しいというか含蓄のある考え方だと思う。 良寛の大愚に通ずるものがある。 一茶にも、「春立つや愚の上に又愚にかへる」という句がある。 このように他者の思考の中に含蓄のある言葉を見つけるほど楽しいことはない。 奥深いものは、映像や音の世界ではなく、文字の世界でしか見つけられないものであろうと、つくづく思うようになって来た。
1.緩褌良寛 その1
2.緩褌良寛 その2



2007年2月18日日曜日

上信越道事故の和解ニュースを聞いて

今日の暦から : スポーツでストレス解消

 上信越道を坂城から長野に向かう時、更埴で大きなジャンクションを通る。 ここで長野道の松本方面と北陸方面に分かれるのだが、北陸方面の車は大きく右に円を描くように曲がって長野道と合流する。 この円(弧)を描く場所でよく事故が起き、荷物やトラックが道路の下に落ちたり、先日は人身事故もあったらしい。
 坂城を過ぎて、五里ヶ峯トンネルからはじまり有明山トンネルと3つトンネルを過ぎると、下り坂が続き、そしてこのジャンクションに来るわけだが、この下り坂で結構スピードが出る(を出す)。 スピードが出たままカーブに差し掛かり、そこが上り坂になっていることもあって、あまりスピード調節をしないのであろう。 ローリング族を回避するため段差舗装がある坂道を見ることがあるが、あのような段差で車自体に震動を与えることで、自然に速度を落とさせるような工夫が必要だと思う。

 さて、14日のしんまいサイトに、「長野の上信越道事故訴訟で和解成立」という記事が載っていた。 和解というのは大変なことだと思う。 日本では、官の過ちを正すというのは至難の業だからである。
 自分も10年前に長野道で事故に遭遇したことがある。 当日は9時頃まで雪が降り、日中は青空で温かい一日であった。 しかし、午後は一転冷たい風が吹き、朝降った雪がとけ、その水が凍って、アイスバーン状態になっていたのであった。 重量のある車はそれでも走れたのであろうが、軽トラックのように軽い車は制御不能となってスピンし、そこに我々が遭遇したわけだ。
トンネル内で横たわるかつての愛車 第一原因の軽トラック
修理工場にて(結局は廃車)
 氷の上で急ブレーキを踏めばABSなどは役に立たない。 その時は上下線で時を同じくして事故が発生していたとのこと。 50kmの速度制限は出ていたが、乾燥路では80や90で走っている車が殆ど。 道路公団の管理責任が存在するようにも思えたが、10年も経ってしまえば単に繰言にしかならない。

 今年は暖冬で雪が少ないというが、春がもうそこまで来ているということであれば、今頃から同じような現象は現われるかもしれない。 季節の変わり目は雪が少ないと安心せずに、自戒を込めて慎重に運転したいものだ。

長野の上信越道事故訴訟で和解成立  2月14日(水)
 長野市若穂綿内の上信越道で2003年6月、乗用車がスリップし、運転していた須坂市内の会社員男性=当時(28)=が死亡した事故で、遺族3人が路面の不整備と乗用車の不備が原因として、日本道路公団(現東日本高速道路、東京)と、車を製造した日産自動車(東京)に総額約7000万円の損害賠償を求めた訴訟は13日までに、長野地裁(辻次郎裁判長)で和解した。
 和解条項は6項目で(1)東日本高速道路と日産は哀悼の意を表し、冥福を祈る(2)東日本高速道路は法規に従って道路を維持、修繕、管理し、交通の安全と円滑化を図る(3)日産は車の安全技術の研究開発に引き続き取り組む-など。和解金は盛り込まれていない。
 和解に応じた理由について、遺族代理人は「訴訟は損害賠償が目的でなく、遺族は事故が2度と起こらないことを望んでいる」としている。
 日産は「亡くなった方に哀悼の意を表すとともに、車の安全技術の開発に努めたい」としている。東日本高速道路は、当事者同士のこと-としてコメントしていない。
 遺族は04年1月に提訴。訴状によると、男性は03年6月25日午前8時10分すぎ、日産車で上信越道上り線を走行中、左側のガードロープにぶつかって車外に放り出され、脳挫傷などで死亡した。遺族は、路面のくぼみにたまった雨水で車が制御不能になった-と主張していた。
��信濃毎日新聞2007/2/14より)

2007年2月17日土曜日

長野に地域政党設立か?

今日の暦から : 運動十分で食事を楽しむ

 脆弱な当サイトにも、日に20~30件のアクセスがあり、明日にはアクセスカウンターの累計がなんと1万の大台になりそうだ。 1万を越えたからと言って何も出ないし、数が大きくなることにあまり意味はないのだが、それでもちょっぴり嬉しい。

 さて、しんまいのサイトで、"「田中前知事の理念引き継ぐ」 地域政党の設立準備"という記事を見つけた。 先の県知事選挙で、"田中さんがダメだから村井さんだ"という短兵急な発想に違和感を持っていた身としては、良い動きだと歓迎したい。
 だからといって田中県政の返り咲きを期待するものでない。 どんなに立派な理想をかかげていても、一国一城の主になると判断があらぬ方向に向かってしまうもの。 先日の浅川ダム問題にしても、国の意に従う(餌に食いつく)ような雰囲気や、反脱ダム宣言という前任者の否定という感じがし、本当に流域住民の安全を考えた結果なのか、ニュースで流れる役所や知事の言葉通りに理解はできない。

 寄らば大樹や二者択一的な政策選びではない、真に住民の安全な生活に根ざした政策が考えられるような、政治集団が生まれるのであれば諸手を挙げて歓迎したい。 書店の会長が発起人の一人というのも裏がなくていい。 加え、一部企業や団体に利益誘導するような人物がかかわらないことを願いたい。

 以下、しんまいの記事から

「田中前知事の理念引き継ぐ」 地域政党の設立準備  2月17日(土)
 田中前知事を支援した「しなやかな長野県をはぐくむ会」の元副会長、平野稔・平安堂会長は16日、飯田市内で「田中前知事の理念を引き継ぐローカルパーティー(地域政党)を、今月中に設立する方向で準備している」と明らかにした。
 平野氏は「昨年の知事選で53万人が田中県政を支持した。その理想をつないでいくためにはまとまった新しい組織が必要」と説明。県内各地区の「勝手連」に結集を呼び掛けることや、総代表の下に地区代表を5人程度置く構想を示した。
 設立に当たり、田中前知事の意向は「直接は受けていない」とし「地域政党は、前知事も訴えていた『県民の自律』に向けた組織。田中氏が直接かかわるような組織であってはならないと考えている」と述べた。掲げる政策は検討中としたが「理念を共にできるなら、国政政党の枠にこだわらず受け入れる」とした。
 平野氏はこの日、県議選への出馬を表明した酒井和美氏の会見に同席、推薦する方針とした。公認の形はとらず、他の選挙区でも推薦を検討するとした。

2007年2月16日金曜日

昨年の降雪量と比較

今日の暦から : トイレの保温で卒中予防

 九州から関東にかけて春一番が吹く中で、昨日からの雪はもう少し降るかなと思っていたがたいしたことなかったようです。 このまま行くと、昨年大枚はたいてスタッドレスタイヤをホイールごと新調したのですが、ほとんど出番がない状態で春を迎えそうです。
 我が家の畑の積雪(除雪)量を昨年と比較してみた。 上段の映像は今日の午後のもので、例年だと12月初旬か4月初旬の様子でしょう。 下段は昨年1月のもので、除雪のブルが雪山に隠れるほどであった。
 今年のような暖冬が今後も続くのであれば、もう冬とか雪などを観光の売りにしていくのは難しいことでしょう。 夏のコスモスも変わり映えしないし、野尻の釣りや水上スポーツも大きな期待は出来ない。 20年30年といった長いスパーンで、人々の心に響かせるような、町の観光や町が生きて行くことを考えて行かないと、もっと苦しい時代を迎えることになるかもしれません。

2月16日午後の画像、ブルーベリーの根のベトが見えそうだ。
昨年1月9日、除雪のブルが押しこくって出来た畑の雪山


2007年2月15日木曜日

藤沢周平の世界

今日の暦から : 酒はホロ酔いで百薬の長  アサヒコムのニュースを見ていたら、俳人一茶の「俗」を描く:藤沢周平の世界というトピックスに目が留まり、早速クリック。 トップ頁から、文化芸能→コラム→藤沢周平の世界と辿っても行き着くことができる。  まず、あらすじだと、
 江戸で俳諧師になることを夢見る弥太郎は、5年の奉公の後、蔵前の札差井筒屋の当主夏目成美に後ろ盾を頼み、元夢の口添えで根岸の二六庵に住むことになった。たびたび成美の隠宅を訪れては飯を馳走になり、書物を借りたり博学の成美から俳諧の話を聞いたりした。そして松尾芭蕉の『奥の細道』に感銘を受け、その足跡を辿る旅に出る。  奥州行脚から帰った翌年、大坂にいた二六庵竹阿が死んだ。二六庵に遺された竹阿の手控えを読んだ弥太郎は、これら竹阿と交流のあった高名な俳諧の宗匠たちを訪ね歩けば、数年の喰い扶持に不自由しないと考え、西国行脚の旅に出ることを決心する。いずれ二六庵を継ぐことも計算して、葛飾派の宗主素丸の正式な門人となり、葛飾派の句会へもよく顔を出した。路銀を工面するため、下総・常陸を巡り、故郷を出てはじめて柏原へも戻る。30歳になろうとしていた。帰郷した弥太郎は、俳諧師「一茶」となったことを家族に告げ、父の弥五兵衛に路銀の工面をたのむ。
と記され、よく見ると、「藤沢周平の世界」とタイトルした週刊誌(朝日ビジュアルシリーズ)とあり、今回十四号目として「一茶」を特集しているものであった。  早速、本屋へ直行してみたら、変形A4型というのか意外と大きな本が見つかり手に取ると、まぁ随分と薄い、30数頁の本であった。 絵を楽しむ週刊誌だというのだろう。 本文の中には、おなじみの矢羽勝幸さんのお名前も見えているが、図式化された人物相関図や、一茶が住まいを構えた両国や八丁堀、行脚した常総や西国の地図と、要所にコメントが付いているのは、随分と分かりやすく、一茶を知る上で役に立つと思われた。 そして、ページの最後の方には、「作品の舞台を訪ねる」と、信濃町内の土蔵からはじまり主だった句碑などの写真が掲載されている。  パラパラと見ていくとすぐに見終わってしまうほどの薄い小冊子だが、560円という値段なので仕方ないであろう。 それでも、つい先日、一茶」を読み返したばかりだし、今は「ひねくれ一茶」を読み直している所なので、興味を持ってこれを見ることができた。

2007年2月14日水曜日

甲野善紀 身体操作術

今日の暦から : クシャミは風邪徴候の合図   湿った布きん細菌の巣
 

ガラスに写る六本木ヒルズ

 昨日は所用があり久しぶりに東京へ出た。 場所は港区赤坂。 溜池山王という総理大臣官邸の裏手である。

 地下鉄の目的駅を降りたったのはいいのだが、地上に出ると自分の居る位置が全く分からない。 時間は丁度昼時で、太陽は真上にあり東西南北もつかめずウロウロするばかり。

 やっと見つけたビルに入り用件を済ませた後、渋谷へ向かおうと、アークヒルズとか泉ガーデンタワー六本木ヒルズなどと、我々にはとんと縁のない豪勢な高層ビルを見ながら六本木通りを歩き、渋谷駅に出た。


映画「身体操作術」パンフレットから 二つ目の用件は、武術研究家甲野善紀(よしのり)さんの「身体操作術」という映画を見ることであった。

 すべては身体に通じ 身体から日常が変わる

 踏ん張らない、 捻らない、 ためない、 うねらない

 伝聞なのだが甲野さんは農学を専攻されたものの、自分の納得がいく武術を研究しようと、武術稽古研究会松聲館を設立。 流派や、剣道・合気道といったジャンルに囚われない、古武道という世界から独自の身体操作論を展開しているとのこと。
 昨今は、介護の現場で介護する人にとって無理のない、被介護者にとって安心できる操体ができると注目されており、NHKなどの番組でもよく見られるようになり、関連の書籍は書店の棚に多く並んでいる。

映画「身体操作術」パンフレット(裏面)から 映画の中では、ご自分の道場で操体を工夫されている様子や、各地での講演会、そしてフルートやサックス奏者にとって一番演奏しやすい体の置き方やラグビー選手との体の取り回し方を写し、その合間に介護にかかわる岡田さん、出版の足立さん、精神科医の名越さん等が甲野さんの印象や考えをコメントしている。
 ボールを抱えているラグビー選手を押さえ込む重量級の選手をいとも簡単に翻してしまう所は何とも面白かった。 他の選手は狐につままれたようなキョトンとした表情をして、何が起きたか状況を掴めないでいた。 100kg前後の重さの選手を動かすなどというのは、彼らにとっても至難の技であろうし、見ている我々にも同じような不思議な所作に感じられた。

 古武術の技には、何気ない日常の暮らしを再発見するヒントがたくさん隠れていると、
   上体起こし
   怪我をしない転びかた
   荷物の軽くなる持ち方
   添え立ち
 なども映像の中で説明されていた。

 お話しの中で、無理のない体の操作は美しく格好いいものということ。 確かにスキーヤーの滑りを見ていて、年配者であっても上手な人の滑りは、無理なく格好いい。
 スポーツの練習なので、体を壊すとか故障を起こすというのは、体にとって無理なことをしているという話にもうなずけた。

 映画の詳細は、「甲野善紀身体操作術」公式HPを!
 他に、甲野善紀さんのサイト半身動作研究会などがある。

 甲野さんが推奨されている「なんば歩き」は、以前トライしたことがあるが、なかなか思うように体が動かなかった。
 江戸時代の人々は一日に十里(40Km)を歩いたという。 あの時代の人々がどんな歩き方をしていたかを思い起こせばいいかもしれない。 親指を指の中に収めるようにするか、ズボンの端をつまむような感じで手を振らない。 目線は数m先に置き、やや前かがみで倒れこむような感じで歩く。 更に甲野先生の説明にあるように、足裏の垂直離陸というのを次回は試してみたい。 踵から足を落とし、つま先で土を蹴るような歩き方が良いとされた、こういう欧米式の歩き方は日本人の体型に合っていないのであろう。
 靴下を長く履いていると、指先とか踵の部分が薄くなってきて、やがて穴が開くことがある。 これは穴が開く所に体重をかけ力を加えていることだと容易に分かる。 体に負担のある歩き方をしていることにつながっている。 昔の人は、現代人が履いている靴より、はるかに粗末な草履で40kmも歩いたのである。 柔な草履でも40kmを歩ける歩き方をしていたわけで、これに倣うのは至極当然の理だ。
映画館で買った小冊子から、もう少し記そう。
まずは、現代の常識をくつがえす甲野善紀語録集
運命は決まっているが、同時に自由である
私の武術の定義とは矛盾を矛盾のまま矛盾なく取り扱う
鎧は持つと重いが、着れば軽い
小魚の群れが一斉に向きをかえるように、身体の各部を一斉に働かせる。
鍛える事の本来の意味は、やればやるほど丈夫になる事をいう。 ところが、今のスポーツの場合、練習熱心な者ほど体を壊している。 鍛えるつもりがほとんどは、消耗しているんですよ。
いわゆる常識学的な力学とは違う世界がそこにある
スポーツは、全て起こり(準備)はいるものと考え、それを極力短くしようとは考えるが、起こりそのものをなくすという発想がない。 ではなぜ武術がそれをできるようになったかというと、それは命がかかっていたからだ。
身体の中で滞るところがなくなれば、感情を不愉快にしようとしてもなれない。 だから、身体を通して考えるということはどんな職場の人であれ、どんな立場の人であれ、だれも無関係じゃない。
運転を習うのに鍛えるとは言わない。 そこに発想の違いがある。
人間って実は実際の物を見ているように見えるけど、頭の中で物語と照らし合わせ、辻褄を合わせている。
靴下を破れにくくするには、普段一番擦れるところを絶えず違う面があたるようにしていれば消耗しにくい。 同じところを擦るから消耗する
駅で列車がぴったり並んで走っていると、なんか止まっているような気がしてくる。 つまり、動きの知覚は相対的なものである
どこかにすごく無理な負荷をかけたりするからいろんな故障が起きる。 なるべく負荷を全体に散らした身体の使い方で一部に無理がないようにその場その場を対応していく。 その中で最善な選択と思われる組み合わせを常時途切れなく続けられるのが、名人である。
道なき道。 言葉なき世界をこの感覚で。 言葉の及ばない世界は、感覚で進むしかないけれども、感覚は状況により、きわめて騙されやすい。 それでも結局頼りになるのは、自分自身の感覚しかない。
何でも喩えで言われると説得されたような気がしますけどその変は注意して下さい。 自分の頭でよく考えて下さい。 素直に人の言うことを信じるもんじゃないです
命が大切だということは誰でも言う。 だが、命が大切だということは、スローガンとして言っていては、人の心には届きにくい。 命が大切だということは、人に感じさせなければ意味がない。

最後の言葉は、中高生の自殺や虐めが起きる時に、かならず話される学校長や役人に聞かせてあげたい言葉である。
さらに、冊子には、技を読み解く甲野善紀キーワード16というのがあるが、長くなるので表題だけを記そう。
1.古武術とは?
��.井桁崩し
��.折れ紅葉の手
��.スポーツトレーニングと身体操作術
��.足裏の垂直離陸
��.ナンバ歩き
��.甲野善紀の身体操作術とは?
��.教えないワークショップ
��.人間にとっての自然とは?
��0.浮き取り
��1.科学で解明できない身体感覚
��2.Don't think
��3.もしもジブリがアニメを作ったら
��4.スランプがない!?
��5.居着かない。常に進化する
��6.身体を通して考える

2007年2月12日月曜日

カヤの平 小林秀雄

今日の暦から : 大根の葉にビタミン豊富

 先日、「現代日本紀行文学全集・中部日本編」に収録されていたもののうち、黒姫の地を訪ねた紀行文として、吉田喬松という方が書かれた「霧の旅」、 俳人中村草田男(くさたお)氏が書かれた「湖畔」という紀行文をそれぞれここに残して来た。 そして、信州というもう少し大きな括りで見たら、著名な作家や随筆家の紀行文がまだあったので、更にここに載せておこうと思う。

 今回は、小林秀雄の「カヤの平」である。 小林秀雄といえば、「無常といふ事」や「考えるヒント」などの著作が思い出され、学生の頃に確か読んだ筈だと記憶している。
 ウイキペディアによると、プロレタリア文学などの観念性や私小説などの脆弱さを批判し、戦時中は、文芸銃後運動の一環として、川端康成、横光利一などと日本国内のみならず韓国や満州を回り戦争支援の活動をした由。
 戦後は、鎌倉の文化人として種々の活動や著作を残され、1967年には文化勲章を受章されたとある。 人となりや思想については分からず、自分なりの考察を持てないが、著作物だけを見ると類まれなる頭脳を持った人物ではあったろう。
 若い人は分からないだろうが、「のらくろ」の作者である田河水泡は義弟、白洲次郎・正子夫妻とは、双方の子息が夫婦であり、血縁であるとのこと。

 本著作では、三好達治から聞いた発哺温泉へ、百名山で知られる深田久弥とともに出かけ、スキーをして湯田中へ降りる行程を記している。 信州の発哺とは、どこであろうかと地図を見たら、志賀高原の中心地であった。 志賀は何度も通っているが、しっかり留まったことがないので、こういう地名も頭に残っておらず、これも本著作で初めて知った次第であった。
1.カヤの平 頁1
2.カヤの平 頁2
3.カヤの平 頁3
4.カヤの平 頁4



2007年2月11日日曜日

茅壁と土座

今日の暦から : 笑いが心身を若返らせる


 先日、「小林一茶すまいを語る」という書籍に、一茶のすまい(住宅)観を一茶の句集から伺えるという記載があると記したが、その本の最後の章に、江戸時代の秋山郷の生活を記した鈴木牧之のことが書かれている。
 このブログでも秋山記行というエントリーを残しているが、文政十一年(1828年)9月、鈴木牧之秋山郷へ足を踏み入れ、室町時代から、あるいはその前からえいえいと続いていた郷の暮らしを記し、天保八年に北越雪譜を刊行している由。


 本書では、その鈴木牧之の足跡を訪ねると同時に、先の大戦後も僅かに見られたという住居の特徴として、茅壁土座をあげている。
 当時は、茅を縦にそろえ横に竹を通して押さえ壁にした茅壁が一般的で、柱を建てるにあたっては、土台を置くという家もあったらしいが、穴を堀って柱をたて埋めたという堀立柱の家が多かったらしい。
 そして、居間に相当する場所は板の間ではなく、土を山盛りにし叩いて平にした所に藁をしき、さらに莚を敷いた土座であったと、その姿は昭和34年頃まで見られたらしい。


 現在、信濃町で見られる茅葺の家は数少なくなったが、秋山郷とそう遠くない地なので、ひょっとしたら同じような建て方をしていた家があったかもしれない。 そんな文献があれば、昔の信濃町の生活を知る一助にもなろう。
 「小林一茶すまいを語る」の鈴木牧之の頁の一部を残した。

1.鈴木牧之のくだり
2.秋山郷のくだり
3.土間住居のくだり


なお、秋山郷に現存していた山田家住宅は、昭和35年に大阪府豊中市の日本民家集落博物館(サイトのトップは大阪府文化財センター)に移築されている由。 何か機会があったら訪ねてみたい。



2007年2月10日土曜日

俳聖かるた 春の句

今日の暦から : 帰宅したらウガイの習慣   運動不足も便秘の原因


 8月14日9月4日11月15日と、一茶記念館ふるさと天望館で販売している "俳聖かるた" の一茶の夏秋冬の句を、それぞれクイズ形式で掲載して来た。

夏の句
1. 田の人よ御免候らえ昼寝蚊帳
2.やれ打つな蝿が手をすり足をする
3.飛べほたる野良同然のおらが家
4.大の字に寝て涼しさよ淋しさよ


秋の句
1.名月を取ってくれろと泣く子かな
2.うつくしや障子の穴の天の川
3.小言いう相手もあらばきょうの月
4.寝返りをするぞそこのけきりぎりす


冬の句
1.芭蕉忌や鳩も雀も客の数
2.ともかくもあなた任せの年の暮
3.うまそうな雪がふうわりふわりかな
4.これがまあついの栖か雪五尺


これまでの最後として、春の句を掲載してみたので上の句を解いてほしい。

大日本ぞ日本ぞ 遊べや親のない雀


そこのけそこのけお馬が通る 負けるな一茶これにあり



2007年2月8日木曜日

信濃町郷土史研究会の講演会

今日の暦から : 食事中の新聞読み胃に負担

 昨日、届いた長野郷土史研究会のメールマガジンによると、柏原の信濃町総合会館で次の講演会があるとのことである。
信濃町郷土史研究会総会講演会 「黒姫山の児雷也(じらいや)伝説」
 2月18日(日) 13:00~14:00
  会場:信濃町総合会館 大会議室  講師:小林一郎(本会会長)

 児雷也の洞窟は、黒姫高原スキー場駐車場から新潟県境にある苗名(地震)滝へむかう信濃路自然歩道の滝近くにあるのだが、今まで一度も見たことはない。 遊歩道から一旦降りなければいけないので面倒だと感じていたし、ただの小さな洞穴であろうと興味が湧いていなかったのである。
 野尻湖に近い所では、熊坂長範に由来する長範山というのがあるのだが、こちらもいまだ訪ねておらず、ともにその由来を紐解いたら面白いと思うものの、18日の講演会には行く時間がない。

2007年2月7日水曜日

藤沢周平の「一茶」を読む

今日の暦から : 肌が教える健康の度合

 藤沢周平が書いた「一茶」(初出 別冊文藝春秋139号~142号、単行本昭和53年6月刊)を読んだ。 書棚の奥に残っていたものであり、昔読んだような覚えはあるものの、内容の確証がなかったため読み直したわけだ。
 継母の存在ゆえに15歳で江戸に奉公に出る場面から小説は始まるわけだが、柏原や古間、二之倉、赤渋などと、今も呼ばれている地区名が出てくると、"あの辺だな"とか、"あの方向に視線を向けていたのだ"などと想像できて嬉しくなる。 諏訪神社の前のなだらかな坂という件(くだり)では、現在は結構急峻ではないかと、子供達が遊ぶ鳥居川も護岸がなく川幅はもっと広かったであろう、などと240数年前の情景が今とさほど変わっていないことに安堵してしまう。

 藤沢氏は、一茶研究家である小林計一郎氏のご教示を得て本書を書き上げたと記しているが、どこまで史実で、どこが作者の創作なのかは分からない。 ただ、全体を通して見ると、あの時代に普通の人があくせく日銭を稼いで生き続けていたように、一茶も俳諧を生業に日々の糧を得ていたのであろう。 生きる姿は市井の人々と何ら変わらないと思えた。
 あとがきで、
 われわれは一茶の中に、難解さや典雅な気取りとは無縁の、つまりわれわれの本音や私生活にごく近似した生活や感情を示した、一人の俳人の姿を発見するのである。
 こういう一茶を、まず普通のひとと言っていいであろう。 俳聖などども言われたが、それは一茶の衣裳として、似つかわしいものではなかったという気がする。
 しかし、そのただのひとのままに、一茶はやはり非凡な人間だったと思わざるを得ない。

と、作者は一茶は凡人でありながら作句では非凡であったと記している。

 解説欄には、藤田昌司氏の次のくだりがある。
 藤沢氏は最も好きな句として
   木がらしや地びたに暮るゝ辻諷(つじうた)ひ
   霜がれや鍋の墨かく小傾城(こけいせい)
 の二句を挙げる。 「地びたに暮るゝ・・・・」と、辻諷いと共に街行く人びとを見上げるローアングルの視線に共鳴し、「霜がれや・・・・・」の句は、芭蕉の「ひとつ家に遊女もねたり萩の月」や、其角(きかく)の「小傾城行てなぶらん年の昏(くれ)」などと比べれば、人生の底辺に生きる人間へのよりそい方がわかるであろう、というのだ。
 そして、このような一茶への共鳴のしかたこそ、藤沢文学のもつ肌のぬくもりであり、心にぬくもりを失った現代人にとっての魅力でもあるといえるだろう。


 さて、書棚には、一茶の財産争いという、ある面を突出させ描いた(であろう)、田辺聖子の「ひねくれ一茶」がある。 これも既読のはずだが、筋の記憶がない。 藤沢氏のいい心持の一茶像を損ねる趣もあろうが、人間は種々の面を持つものだから、やはり読み直した方がいいだろう。

2007年2月6日火曜日

小林一茶すまいを語る

今日の暦から : 揃えて置きたい常備薬

小林一茶すまいを語る

 1989年出版の「小林一茶すまいを語る」という書籍を見つけた。 著者は、発刊当時、神奈川大学工学部の教授(現在、在任されているか不明)の西和夫さんという建築学専攻の先生である。
 「近世文学の建築散歩」と副題をつけておられるが、茶道機関誌に連載したものを一冊の本にまとめられたとある。 そして、シリーズ三部作だと、他に「紫式部すまいを語る」と「兼好法師すまいを語る」の2冊が既刊されているらしいが、例によって古書店で見つけたため、他の2冊のことは分からない。

 さて、「小林一茶すまいを語る」であるが、芭蕉・利休・良寛からはじまり鈴木牧之に至るまで、近世の文学者とその作品から、「すまい」や「家」に対する意識を考察しているもので、10章に分けられた7章目に小林一茶のことが書かれている。
家なし一茶の家願望

 26頁にわたって、一茶の俳句を実例に時々の一茶の思いを説明しているのだが、著作をそのまま複写するわけにいかないので、最初の所だけを残して、あとは要所だけにしよう。
小林一茶すまいを語る  一茶の生涯(1頁目のみ)



 「家なし一茶」と題した段では、
家なしの此身(このみ)も春に逢ふ日哉 、 家なしも江戸の元日したりけり と家持ちへの願望を現しているという。 また、夕桜家ある人はとくけへる 、 家なしがへらず口(ぐち)きく涼み哉 などと家ある人をうらやむ姿も見られる。
 秋寒や行先々は人の家 、 人並に畳の上の月見哉 、 よりかかる度(たび)に冷(ひや)つく柱哉 と訪ね歩く、他人の家を詠む。
 そして、故郷柏原の我が家に対する思いは、文化二年には、家もはや捨たくなりぬ春霞 と詠みながら、文化十年自分の家となった2年後の文化十二年には、横がすみ足らぬ処が我家ぞ と詠んでいるとのこと。

 悲願の我家になる直前の文化9年には、是がまあつひの栖か雪五尺
 大雪の我家なればぞ花の春   (文化十二年正月)
 ふしぎ也生れた家でけふの月
 親の家見へなくなりぬ夏の山
 思ふまじ見まじとすれど我家かな

「一茶終焉の土蔵」、「一茶の俳句」へと考証が進み、「住まいと生活」では、
 炭の火や夜は目につく古畳
 埋火(うずみび)や白湯(さゆ)もちんちん夜の雨
 我家の一つ手拭氷りけり  などと詠む。
「農村と都市」では、
 白妙の土蔵ぽっちり青田哉
 軒下も人のもの也青田原
 軒下も畠になして月夜哉 などと詠んで、一茶の人となりを説明している。

2007年2月5日月曜日

黒姫山と月の入り

今日の暦から : 一日3回定時に食事をする   疲れた夜は早寝が一番

黒姫山と月の入り

 この画像は今朝7時の黒姫山で、戸隠の山々の間に月が没する前のものである。
 天気の良い明け方には、このようにお月さんが見えることがたびたびなのだが、去る2日の朝は、満月と重なり大変綺麗に月が見えていた。
 黒姫山の山頂付近に沈む形で、日の入りのような感じで月が輝いていたのだが、その時の画像を保存するのを忘れてしまった。

 そこで、お月さんはどんな弧を描いて沈むのかなと調べてみた。 サイト検索で探すも詳しく説明したページは見つからず、国立天文台のサイトで、2日と5日の朝の月の位置を確認した。
 天文学の知識は全くなく理解できないのだが、たった3日の違いなのに随分と月の位置が異なると、2日の朝に見た月は黒姫山山頂付近であったことをこの図からも確認できた。

2月2日朝6時台の月位置
2月5日朝6時台の月位置


2007年2月3日土曜日

木管五重奏を聴く

今日の暦から : 玄米、はい芽米栄養の宝庫


演奏曲アルバム

 昨日は、信濃町出身のお嬢さんが参加されている木管楽器グループの演奏会に行って来た。

 信濃町に家を持とうとした15年以上前、野尻湖畔で野の花を束にしていた、あの可愛い幼児がこんなにも成長したのかと感慨ひとしおである。

 彼等の演奏は3年前にも聞いていたが、音楽大学三年生ともなると演奏力というか技術的にも随分進歩して、顔つきも何気に大人の雰囲気を醸し出していた。


 演奏曲目は、
































WAモーツアルト オペラ「魔笛」より序曲
Cドビュッシー「小組曲」より 小舟にて  行列
Aライヒャ管楽五重奏曲 ニ短調
福島弘和木管五重奏のための5つの舞曲 より抜粋
Eボザ夜の音楽の為の3つの小品
Lベリオ作品番号10番
Tブルーマー木管五重奏曲 OP52



 現代曲というのか、我々素人がよく耳にするクラッシク曲でないため、どの曲もやや難しい感じがした。 しかし、技術的にはかなり難易度が高いのであろう、3年前の演奏とは格段に違い、確実に成長してきているという印象を受けた。

 楽器店の会場は、満席で補助椅子を追加するほどの盛況。 前席の端という一番悪い場所に座ってしまった。 ストップといったか、カタカタという楽器(音階)を押すボタンの音や演奏者の息遣いが聞こえてしまい、もう少し後席に座るべきであった。 カメラを抱えていたが、身動きできず、しかも彼女の後姿しか見えないという位置に座るという失敗までおかしてしまった。

演奏を終えて


2007年2月2日金曜日

野田英夫記念展図録から

今日の暦から : 心にストレス、体に負担


壁画帰郷記念展から
 かつて信濃町に足跡を残した、「夭逝の画家・野田英夫」の碑を見つけたと先日ここに書いたが、10数年前に展覧会へ行き図録を買ってきた筈だという家内の記憶をたよりに我家の本棚を探してみた。 そして見つけたのが、1992年春、熊本県立美術館で開かれた「壁画帰郷記念展 野田英夫そして多毛津忠蔵」で購入してきた図録であった。

 そこで、野田英夫の人となりや画風を知るため、収録頁の一部を複写してここに掲載した。 但し、作品については無断複製となるためテキストを追加。
 野尻湖畔・坂本屋旅館で絶筆となった「野尻の花」については、この時点では年譜に掲載はあるものの作品リストに含まれていない。 以前、上田の信濃デッサン館で見た記憶があるものの定かな記憶がない。 今夏以降、信濃デッサン館はリニューアルオープンするであろうから、あらためて見に行きたいと思っている。

1.壁画帰郷記念展パンフレット(表面) (1992年4月7日~5月24日) 
2.壁画帰郷記念展パンフレット(裏面) (1992年4月7日~5月24日) 
3.壁画帰郷記念展 図録表紙から
4.ピードモント・ハイスクール壁画・学園生活(1937)
5.車中の少女(1932)
6.男(1935)
7.ウッドストックの森(1932)
8.ルース像
9.野田英夫 年譜 その1
10.野田英夫 年譜 その2
11.野田英夫 年譜 その3
12.野田英夫 年譜 その4



野田の旧宅


 本図録の中に、「坂本弁護士一家をさがしています」というパンフレットが残っていた。 1989年11月3日一家は横浜の自宅から拉致され、この1992年の時点では行方が分からなかった。 その後については既に報道されている通りだが、決して忘れてはならない事件である。
 いつであったか、北鎌倉のある名刹を訪ねた時に、墓参に来られていた坂本弁護士のお母さんを見かけ、哀しみと苦しみが溢れた表情に何とも云えない想いを感じたことがある。 どんな信念があろうとも悲哀を呼ぶものに決して良いものはない。



2007年2月1日木曜日

かんずり

今日の暦から : 血圧計で常に自己管理

かんずり

 新潟市の1月で積雪がなかったのは、気象観測を開始した1891年以来だとニュースは伝えている。 ひょっとしたら数世紀より数十世紀ぶりではないだろうか。

 気象予報士は、エルニーニョ現象により南の高気圧が強くて、西高東低という日本型の気圧配置にならないため、気温が高く雪降りも少ないと伝えている。

 安易に温暖化と云わないまでも、雪が降るべきニューヨークで降らず、温かいはずのカリフォルニアで降ったり、アルプス山中で雪がないなど、やはり異常な現象としてこれらの気候を捉える方が正解のように思える。

 さて、先日、信濃町に隣接する妙高山が見える所で、かんずりを作る(唐辛子を雪に晒す)風景をテレビで見たと、信濃町に育った方から聞いた。 確か、かんずりは新井で作るものだし、あそこから妙高山が見えても遥か遠いのではと不思議に思った。 自分の記憶では、新井の広い田圃に積もった雪の平原にばら撒かれている唐辛子の風景なのである。
 そんなことを思っていたら、信濃町のある方のサイトに、今年は雪がなく、晒す場所がないため、妙高山麓の雪がある場所に移動して作業が行われたと書かれていて納得した。

 そして、かんずりの会社のページを見たら、平野部は積雪0で、妙高のほおずきヶ原に移動して、晒し作業を行っているとあった。
 このかんずり(寒造里)だが、道の駅しなの「ふるさと天望館」の棚にも置いてあるのだが、小瓶しか置いていないことが多い。 最近、人気が出てきたのか土産店に置いていないこともあって、なかなか買えない食材になりつつあるようだ。
 香辛料の類は西洋もの、中国もの、韓国もの等色々あり、それぞれ使う料理が違うのであろうが、日本人向きの旨みを感じる香辛料を考えた時、このかんずりがダントツだと思う。
かんずりは、一般的には鍋料理などによく使われるであろうが、我が家では、さっと湯通ししたモヤシ(良いモヤシを使う)に、薄いポン酢をからませる時にかんずりをよく使う。 さくさくとしたモヤシの歯ざわりと唐子味が合うのである。

 かんずりの会社のページをよく見ていたら、会社の所在地は妙高市とあるものの、アライリゾート(ここもスノーパークに名称が変わったのかな?)の入口だから、やはり新井にあると言うべきか、市町村合併で行政区域が変わってしまうことはよくあり、これからは妙高のかんずりと聞いても不思議に思わないことにしよう。